(2) D坂と団子坂

 

明智小五郎のデビューが飾られた『D坂の殺人事件』の舞台、D坂はかつて乱歩自身が住んでいて、古本屋「三人書房」をひらいていた団子坂がそのモデルだということはもう定説になっている。また乱歩自身もこれを認めているようである。


D坂の殺人事件」の背景は、先に記した団子坂で自営した古本屋の店構えや近所の様子を念頭に置いて書いた。


と『探偵小説四十年』にもある。

しかし現在の団子坂からはかつてのD坂を連想するのは難しいかも知れない。さらにいえば、乱歩の作品からだけでは団子坂を連想するのもむずかしいかもしれない。『D坂』のなかでは「以前菊人形の名所だったところで、狭かった通りが市区改正で取り拡げられ、何間道路とかいう大通りになって間もなくだから、まだ大通りの両側にところどころ空き地などもあって、今よりはずっと淋しかった時分の話だ。」といっているので、まだあまり人が住んでいない郊外の未開発地域のような印象を与える。さらに問題の古本屋も「みすぼらしい場末の古本屋」などというものだから、なおさらである。

しかし森まゆみの『明治東京畸人傳』(新潮文庫)を読んだところ、団子坂と言う場所はさまざまな歴史をみてきたことがわかった。


文京区千駄木の団子坂。品川弥二郎、森鴎外が住んだほか、二葉亭四迷の『浮雲』や夏目漱石の『三四郎』、さらに室生犀星の詩『坂』でも有名である。急な坂で、下りてくる人が地べたから生えたように見える。もっともかつてはもっと急で、漱石などは「人は急に谷底に落ち込む様に思はれる」(『三四郎』)と表現しているが、明治以降何度か拡幅や、なだらかにする工事が行われたらしい。

正式の名を千駄木坂、とはいえ人は勝手な仇名をつけるもので、団子坂とは、あまりの急坂ゆえ通行人が団子のように転げるからとか、団子のような小石が多かったとか、坂上に有名な団子屋があったからとか諸説紛々としている。84p)


さらに森によれば、現在は日本中にある「薮そば」の元祖は団子坂に江戸時代開業し、また『広文庫』でしられる物集高見もここに大きな屋敷を構えていたと言う。同書に添付された地図を見てみれば、団子坂は確かに一高や東大にも近く、明治時代の知識人と縁が深くて当たり前のような気がする。しかしそれが乱歩の作品にでてくるとなると、その由緒正しさ、きちんとしたところが一瞬のかまいたちに切り取られ、なにか乾いた、うら寂しい時間が停止した空間のように感じられるのだから不思議ではある。