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(5) 江戸川乱歩は排泄物?

 



現在「江戸川乱歩事典」編纂のために講談社から出た「江戸川乱歩文庫」シリーズを読み返している。「シャーロック・ホームズ事典」とちがって、その量の多さに今さらながら「手をつけるんじゃなかった!」と呻吟しながらも、けっこう楽しんでいたりしている。ようやく半ばほどまでさしかかり、第21巻「悪魔の紋章」を手にした。これを読み返すのも久しぶりである。まず本文にとりかかるまえに、だいたいの雰囲気をつかんでおくために解説から読むことにしている。中島河太郎氏はいつものごとくあらすじをまとめていてくださるからだ。このシリーズにはさらに現在の推理作家の手による乱歩に関するエッセイも収められているのだが、私は正直いってこのような醜悪な文章が収録されているとは思いも寄らなかった。これは内田康夫氏の「乱歩からの逃走」という。

彼はいったいどのような意図でこの文章をかいたのだろうか。まず内田氏は「僕のように賞と名のつくものにまったく無縁のポット出は、乱歩賞作家というだけで、簡単に恐れ入ってしまう」とか、「小説現代の年中行事のひとつに「乱歩賞作家特集」というのがあって…疎外感を覚えたりもする」とか江戸川乱歩というよりも「乱歩賞」に対するコンプレックスを告白する。その後少年時代に読んだ「人間椅子」などはいちおうまともに紹介をするのだが、それに次いで「いま考えると、いくら小説の上だからといっても、そういう異常で邪悪で蠱惑的な世界を体験した僕が、その後、大した不良にもならず、真人間として成長したのは奇跡といっていい」と述べているのである。とすると、いい大人になってもいまだに乱歩の研究をしている私などは大不良でマフィアの親分ぐらいになれそうである。さらに乱歩の少年向け作品については「トリックが幼稚で、つまらなかったことだけは憶えている。十歳のガキがばかにするくらいだから、乱歩先生は優れたミステリー作家ではあったかもしれないが、本格推理はたぶん、苦手だったのだろう」と断じている。どうも内田氏はきちんと乱歩作品のことを憶えていないのに適当なことをいっているようだ。子供向きシリーズだけで本格推理失格のらく印をおされてはたまらない。彼は乱歩の短編を読んだことがあるのだろうか?

さらに内田氏は「芋虫」を槍玉にあげる。
「僕は身震いがし、反吐が出そうなほどの嫌悪感に襲われた」
「いうまでもなく、「芋虫」のような作品は、差別思想絶滅を目指す現代には、絶対に登場しえない作品である。…ここまでグロテスクな発想を生み出す頭脳を、同じ人間が有していたということは、いまもって信じがたい気がする」
「どうやら、文学とは、芸術とは何かという、もっとも入口に近いところで、僕は江戸川乱歩に出会い、顔を背けて別の道へ歩きだしていたようだ。もしかすると、こっちの道のほうが複雑な迷路だったのかもしれないが、壁をまさぐって行けば出口がある。少なくとも希望がある」
「たかがミステリーに文学だの芸術だのはおこがましいと言われるだろうけれど、ミステリーだからこそ美学が求められるべきだと僕は思う」
「犯罪は人間や人間社会が垂れ流したウミや排泄物のようなものだ。それを描けば当然、人間が見えてくる。…しかし、そこにある物が露骨な排泄物であるかぎり、読者は、その向こう側にある人間の尊厳や美しさを忘れてはしないか。乱歩に出会った少年の僕は、蠱惑は蠱惑として驚き、あるいは惹かれながら、ついに顔を背けたにちがいない。その選択が現在の僕の小説作法に投影されていることを、いまは乱歩先生に感謝している」

なんとまあ、独善的で幼稚な解釈だろうか。このような作家が日本の推理作家のなかでも有数の売り上げを記録しているとは信じがたい。作家同様に読者も幼稚な人間がそろっているのだろう。内田氏はグロテスクである、という「芋虫」の表層しかみていない。彼の美学としては見目麗しい登場人物が好きなようである。確かに「芋虫」の須永中尉の姿は醜い。しかしだからといって彼の存在すべてが醜いと断罪する内田氏は浅薄な読書しかできていない。「芋虫」にはさまざまな問題提起と葛藤が折り込んであるのを読み取れないのだろうか。鷲尾少将を代表とする世論の無責任な英雄と貞節な妻という伝説、そしてその檻に閉じ込められた須永夫妻の苦しみを。須永中尉は自分のアイデンティティを勲章という金属の塊でしか確認できず、あとは生ける肉塊でしかありえないという苦痛。時子は夫の介護に疲れ、世間の重圧に押しつぶされて有り余った性欲を異常な形でしか表現できない。現在介護はもっとも深刻な問題であり、性欲はべつにしても同様の苦痛を感じている家族は国内に数多くおられることだろう。そのようなぎりぎりの状態で時子が爆発して須永中尉を傷つけたにもかかわらず、中尉は動かぬ体で「ユルス」の一言を残して古井戸に身を投げて自殺するという結末は、彼がただの肉塊ではなくすべてを理解した優しい夫であったということを意味しないか。ある意味、「芋虫」は恋愛小説でもあるのだ。

まあ内田氏が「盲獣」あたりを出して非難するのならまだわかる。これは乱歩自身も認めるグロテスクだけの失敗作だからだ。しかしその場合には私は「芋虫」や「陰獣」がありますよ、といってやることもできる。だがこのように「芋虫」をも読み解けないような作家は、どうしようもないとため息をつくしかない。なにしろ彼の「美学」による「小説作法」とは人形のような登場人物が現代の水戸黄門をやっているようなことなのだから。

戦前の浅草風景