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(6)「大暗室」年代学

 


以前執筆し、このホームページでも紹介している「明智小五郎年代学」では明智小五郎が登場したすべての事件の発生年代を推定している。ただしそのボーダーライン上の作品があることはある。それは「大暗室」(昭和十一年(1936)十二月から十三年(1937)六月まで「キング」に連載)である。この作品にはまったく明智小五郎はでてこない。しかしそのかわり、敵役の大曽根竜次は明智小五郎の名前をかたって都下の六大新聞の記者をおびきだし、彼の大暗室と名付けられた地下宮殿を取材させたのだった。そこで今回は補追編として「大暗室」の発生年を推定してみよう。
原文には


…私立探偵明智小五郎氏から、奇妙な電話を受けた。
「渦巻の賊について私かにさくり得たところもあり、私見を申し述べたいから、すぎに私の今いるところまで記者をよこしてもらいたい」
というので、その場所は麻布M町の中野という探偵の知人の家であった。各社の社会部長が、ただちにこの申入れに応じ、部内すぐっての腕利き記者を、中野家へ急派したのはいうまでもない。渦巻の賊といえば、誰の話でも飛びつきたいところへ、電話の主が名探偵明智小五郎とあっては一刻の猶予のならぬ特種である。
(推理文庫19巻p.271)。


以上から見てわかる通りに、この当時明智小五郎は名探偵としてすでに名声を得ていたことがわかる。となるとおそらく少なくとも1924年に上海から帰国した後、おそらくはシナと印度から帰ってきた1928年以後のこととおもわれる。また「麻布M町の中野」という明智の知人を大曽根が騙っているところをみると、明智が麻布と因縁があるように行間に感じられるので、明智が麻布竜土町に引っ越した1929年の末ごろ以降である可能性が高い。

さて有明友定男爵と大曽根吾郎が台湾航路の宮古丸で遭難したのは明治43年(1910年)10月下旬のことであった。これははっきり原文に記載がある(p.10)。さらに時がながれて有明友之助と大曽根竜次が東京湾上空の民間飛行競技会に出場したのが「それから約二十年の歳月が流れた」昭和×年三月下旬であった。ということは昭和5年(1930年)あたりであると思われる。これは前段落で明智の経歴から推定した年代と一致する。また「昭和×年」とあり「昭和××年」ではないのだから、昭和一桁におこったのであろう。だからこの事件は昭和5年(1930年)から昭和9年(1934年)のあいだに発生したとかんがえらえる。


(追記)

現在この「明智小五郎年代学」は、光文社文庫版との内容を調整して改訂した上で、「明智小五郎読本」(長崎出版)に収録してある。ご参考になれば幸いである。

戦前の日本橋。おそらく白木屋(のちの東急)から望んだ風景とおもわれる。尖塔は三越。