(8)野村胡堂と乱歩

 






野村胡堂といえば「銭形平次捕物控」で有名な捕物作家中興の祖である。(もちろん開祖は岡本綺堂である)彼の作品は平明で明朗闊達であり、ほとんど悪人らしい悪人が登場せず、犯人も平次親分は情けをかけて見逃してやるという「法のユートピア」を描いている。

その野村胡堂と乱歩の関係はどうだったのだろうか。一見ほとんど縁がないようにみえる。もっとも胡堂も「奇談クラブ」というような怪奇味のある作品もかいているし、ほぼ同時期にそれぞれが探偵作家クラブと捕物作家クラブの初代会長を勤めていた。たまたま読了した野村胡堂夫人ハナの伝記「カタクリの群れ咲く頃の」(藤倉四郎、青蛙房、平成11年)に数ヶ所乱歩が登場するので、ここの書き留めておきたい。


昭和3年に長男一彦の転地療養のため、野村一家は東京から鎌倉に引っ越した。その際ハナは日本女子大学付属高等女学校の教職を退き、収入が減少してしまった。すると


……吉川英治から手紙がきた。なんと、「少年雑誌「少年世界」に紹介しておいたから連絡してみてください」という好意いっぱいの文面だ。長一(引用者註:胡堂の本名)・ハナは小躍りした。そしてジーンとした。江戸川乱歩からも同様の手紙がきた。胡堂の窮状を知って出版社のいくつかに紹介をしてくれる。かつて引き上げてくれた恩返しである。p235)


戦後乱歩は若手作家の援助を惜しまなかったが、戦前も同様だったとみえる。ここで「引き上げてくれた恩返し」といっているのは、かつて胡堂が「写真報知」に関係していたときに、乱歩の作品を掲載したためだと思われる。これについては後述する。

363ページには昭和24年の「半七祭」における写真が掲載されている。これは捕物作家クラブが主催する、捕物帳の元祖をたたえる会である。胡堂はクラブの会長であった。この写真には胡堂の他に城昌幸、土師清二、三田村鳶魚、乱歩、横溝正史がうつっている。もっとも残念ながら乱歩は横を向いており、こちらから見えるのは彼のはげ頭ばかりである。

胡堂は昭和38年に八十歳で亡くなった。その通夜において乱歩は哀悼を述べている。


大正の末期に私が探偵小説を書きはじめましたときに、「新青年」に書いておりまして、どこからもまだ注文がこないときに、最初に注文を受けたのが野村さんのやっておられた「写真報知」であります。野村さんはその時、顧問みたいな格で雑誌をみておられたようであります。野村さんの意向によって私に注文がきたわけであります。そして「新青年」よりも倍の原稿料をもらいまして、これならやっていけると思った最初のきっかけがそれであります。(中略)
野村さんのように、同じ主人公を使って何百編というものを書いた例もないのであります。野村さんの小説は、(中略)シャーロック・ホームズなどから線を引いて、よく読まれたのでありますが、それさえも、六十何編しか書かれておりません。野村さんはその十倍に近い量を書いておられると思います。そういう意味でも、非常に世界的な希有の作家だと思うんであります。
p423-24)


ここで述べている「写真報知」発表の作品は、以下の通りである。


「恋二題」大正14年3月、第3巻7号および8号
「盗難」大正14年5月、第3巻14号
「百面相役者」大正14年7月、第3巻21号および22号
「疑惑」大正14年9月、第3巻26号、27号、および10月29号
「二人の探偵小説家」大正15年第4巻1号から4号で中絶


やはり最後は中絶でおわってしまっているというのは乱歩らしいが、このことを心苦しく思っていたので、胡堂のことが気にかかっていたのだろうか。

蛇足になるが、胡堂夫人ハナの日本女子大学付属高等女学校のクラスメートには東条英機夫人勝子がいた。小説家の山中峯太郎は東条の後輩に当たり、妻となる込田ミユキは東条の紹介であった。また東条が首相になったときには山中は演説などをかわりに執筆している。



参考文献

藤倉四郎「銭形平次の心」文藝春秋、1995年
「江戸川乱歩執筆年譜」名張市立図書館、平成十年


(追記)「写真報知」は乱歩の連載中に廃刊となったので、「二人の探偵小説家」の中絶は乱歩の責任ではなかった。